昭和46年08月15日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」

 天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞと確かにそうだと思います。今日はだから、天地一目に見ておると言う事を、天地金乃神といえば、先の先の事までわかっておるぞ、知っておるぞと言う風に、ここは頂いてよいという意味でお話を進めていきたいね。天地一目に見ておるぞと見ておられるだけではない。天地の隅々まで御承知であるだけではない。それこそ先の先まで知っておるぞと言う事と、私は同じ意味に頂けると思うです。そういう意味で今日、先の先まで知っておるぞ。
 只、そうですね、やはりここで幾人もの方達が、ここで信心なさる方達はそんな事はありませんが、けど神様の方からお知らせを下さったというのはございます。妊娠のおかげ頂いてまだ半年か、七ケ月位の時に、お名前を頂きたいという人がある。あれはあながちですね、悪い事じゃないですね。先日も、ある方が参って来て先生この子でございます。お腹の中でお名前を頂いたのはというて、非常に神様から特別のおかげを受けておるとして、子供も親もそういうふうに感じておりますからね。
 だからそういう意味合いではと思います。これなんかは天地の親神様がね、やはり先の先まで知っておられる事がわかりますね。いわゆるお腹の中の事まで見通しだという事がわかります。天地を一目で見ておると言う事は、そういう人の心の中、又はお腹の中まで見通しだと言う事、だからたまにはやはり、神の権威にかけても、そういうここに仰っておられますから、そういう神の権威にかけても、それを示しなさらなければならない場合も、やはりあるのじゃないかと思います。
 だからなら、私共としてはですね、いわばそれを取り上げて、それを信心というのではいけないと思うのです。ですから今日はそこのところの、天地を一目に見ておるぞという事は、先の先まです知っておるぞと、氏子の心の中までわかるぞと、お腹の中でもわかるぞと、男が入っとるか女が入っとるかが分る。ですから私は、その神様が私共に平等におかげを授けて下さるけれども、受けものが問題である。受けものが悪いからおかげがまちまちになってしまうのである。
 私は昨日久富正義さんが、ある御用の為に、日田の方へ参りますとここの御用の事で、丁度、お食事をしとる時に寄りましたから、まあこの話はここで出来る話じゃありませんけれども、折入って、また時間をもうけて練らなければならんのですけど、昨日月次祭に、秋永先生が今度若先生の結婚式についての事も、正義さんあんたは御造営委員長としてさして頂いとるから、もうついでにいっちょ、若先生の結婚式も委員長を努めてくれんかと、秋永先生からいわれたけども。
 これは私にとっては大役だと、これはやはり信徒会長の秋永先生の方が最適と思いますという事で、まあいうふうにいわれますけどという話であった。それでついてはその前の日に秋永先生二,三人でその事をやはりいろいろと心配してくれてる。どういう方法で式をするかと、秋永先生、仲々構想がですね、広くて大きいのです。まるきり県知事から、久留米市長から呼ぶと、勿論ここの筑水の先生方は勿論教務所辺りまで呼ぶとこういう。それはもう、甘木の大教会辺りですら。
 息子さんの結婚式にはそげな事はあっとるまいと思う。と言うた事は言うたものの、又、どこに御神意があるやらわからんから、それで私の考え方が大きいならば、正義さんのようなそれにブレ-キをかける堅実な考え方の人がなった方がよかろうと言うておりました。その事を正義さんが言われるのです。その事を私は今日の御祈念の時に思い出させて頂いてね、その事をお願いするだけならよかったけれども、御祈念中にどけんしたがよいじゃろうかと考えよった。
 そしたらね、先の先の事まで考えたり心配したりする必要はない、今日只今の事を思え只今の事を願えと頂いて、今日二十二節を頂いた。いうならばもう十一月になってね、まあ、一ケ月、二ケ月前の事は神様がちゃんとそれこそ計画しとって下さるのだ 神が神様が、お前が心配しなくっても、まあ例えていうならば、正義さんの心の上に、秋永先生の心の上に、まあ、適当に働きかけて下さる。
 これは誰がどうなるか分りませんけれども、父親の私が心配するのは当たり前のようだけれども、そう言う事に頭を使いよったんじゃ、自分も助からん、人も助からん。ははあ、こういうところがですね、ままよという心を出さねばおかげは受けられん。ままよとは死んでもままよという。これは大変厳しい事のようですけれども、同じ事が言えれると思うですね。今日はそういう意味ですから、大変今まで頂いたこの二十二節とは意味が違う。天地金乃神といえば、先の先まで知っておるぞ。
 その心の中も見通しぞ。お腹の中でもわかるぞ。そういう神様にお願いして何で心配がいるか。ところが私共やはり、取り越し苦労があり心配がある。さそういう時にです、おかげが漏るのである。心配しよる間に、だから心配する心で信心せよ仰る事は、心配を神に預けると言う事。そして神様が教えて下さる事を、いわゆる今月今日只今の事を、しっかり祈り願っていいんだ。
 人間心を使うな。先の先まで心配するな。今日只今のおかげのところを頂かして頂く事になれば、私はおかげが漏ると言った様な事はないと思う。願った以上、心配を神様にお預けした以上、もうこちらは一生懸命で神様から頂いて帰る御教えを本気で心の中に頂き続けようという実績が、それがままよという心である。そういう生き方こそがです、神の徳を充分に受ける事が出来る。
 なかなかここは厳密にいうと難しいですやはり。やはり心配になるのです。取り越し苦労をするのです。あぁだからこれは取り越し苦労をしよる、心配しよると思うたら、その心配の預け方がまだ足りんのだと本気で今月今日今の事をね、思いよらんのだ、今本気で教えを行じようとしていないのだと悟らして貰うて。そこに取り組み取り組、信心を進めて行くと言う事が段々、徳を充分受けようと思えば、ままよという心ままよとは死んでもままよと言う様な、もう一切合切神様におまかせしたという心が生まれる。
 一切合切がまかせられる。だからまかせられた者、まかせられた神様が、お働き下さるわけですから、神様の御働きをもってするのであるから、おかげが本当に水も漏らさぬ程しのおかげになってくるわけ。受け止める事が出来る。今日はまあ、例えば、大変な病気なら病気、もう医者が難しいというた、それを一心に御縋りさして頂いて、もう命のある無いは神様にお預けしておまかせ致しますと言う様な、厳しい事ではなくて、そういう時に、そういう心の状態になれる事の為にです。
 私共は些細な日常生活の上に起きてくることでもです、この「ままよ」を出さなければいけんのです。稽古だ。天地金乃神といえば、天地一目で見ておるぞ神様は、と言う事は神様は先の先まで知っておるぞと言う事である。神様は氏子が不幸になればよい、困った事になればよいといわれるはずはない。だからその神様におまかせ出来る信心を、心の状態をここではいうとられる。受け物が悪いと思う。だからおかげにならん、そのおかげの受け物を正確なものにしていく稽古が。
 信心の稽古だというてもよい。そこで不安があったり、心配があったり、取り越し苦労する時には、いよいよ自分のおかげの受け物が、いよいよお粗末であるなと思わにゃいけんという事になりますよね。神様にお願いをしてるから、神様が何とかして下さるおかげにしかして下さらん。そういう確信がある時には、取り越し苦労せんですむでしょう。そういう稽古を日常の上に起きてくる茶飯事の中にです、そういう稽古を本気でせねばならん。しかもここにはおかげが漏るぞというておられる。
 おかげの次には、神の徳を充分に受けると思えばと言うておられます。ここからはおかげでなくて、徳の受けものです。おかげの受け物ではなくて徳の受け物。神の徳を充分に受けようと思えば、いわゆるままよという心、しかもそのままよというのは、いよいよ死んでもままよのことぞと言う様にきびしゅう教えて言うとられますけど、これはもう死んでもと言う様な事でも、その問題の事では死に生きに関わらないでしょう。だからその問題がよし、右になろうが、左になろうがと言う事である。
 ところが。どうでも右になったがよいと思う。左になったらまだよいと思う。それではね、ここのところの充分に徳を受けようという、徳を受ける心の状態は生まれてこない。育たない。そこで私共がですね、如何に自分の心がいつも、むなしゅうしておれれる、心の状態というようなね、むなしゅうと言う事はどう言う事でしょうかね、仲々難しい。いわゆる白紙になるとでも申しましょうか。条件がない、いろんなもめごとなんかを、こんがらがって解決出来ない時には仲に立った人が言うですね。
 とにかく今までの事は白紙に戻して、私にまかせて下さいとこういうわけなんです。そういう心の状態。死んでもままよというのは、いわゆるむなしゅうする、己をむなしゅうする、死んだものには何にもない。日に日に生きるが信心なりと教えとられます。と言うことはもう日に日に過去の自分というものはむなしゅうして行くと言う事。だから日に日に死ぬるが信心なりという事がいえる。そういう事なんである。
 厳しい事のようですけれども、やはりそこのところに焦点をおいて、それが小さな問題であろうがです、やはりそれを、そういう大変なここの教えを頂き稽古をしていくのである。お願いをさせて頂いて、お取次を頂いたらいわば、もう親先生におまかせするという心の状態。その見地からお任せだけではいけん。まかせたら、今度は今日私が頂きました今月今日、只今の事を思う、もうおまかせしとるけんどうかなろうと、言った様なのんきなものじゃない。
 いわゆる本気で私が教えに取り組ませて頂くと言う事。けど私は信心のギリギリの眼目というか、目的はそういうところにあると思う。それは金光様の御信心でいうならば、お取次を頂いたら心配はさらさらないというところまで、私はお取次というものは、の働きというものを信じなければ駄目だと思う。お取次を願うて、又心配を持って帰ると言う事のないだけに取次の働きというものを信じれる稽古をさして貰う。それを茶飯事の出来事の上にでもです、小さい事ならそれは出来ますよね。
 段々出来にくい事がある。その出来にくい事を又おかげを頂かにゃならん。いよいよ徳を充分に受けようと思えば、いよいよの時、ままよという心になれるおかげを頂かして貰う。今日は大変ここのところを厳しい表現でいつも頂きますけど、今日はここのところのおかげの頂けれる事の為の信心修行というのは、日々なされなければならない。日常の小さい事柄の中にでも、一寸心配になる。一寸気にかかる。一寸取り越し苦労が出て来るような事柄の中にも、お取次を頂いて、お願いをする。
 お願いをするのは金光様がお取次をして下さって、天地金乃神にお願いをするのであるから、その天地金乃神様といえば、天地一目に見てござるお方。と言う事は天地一目に見てござると言う事は、先の先まで承知しておると言う事、人間の心の中まで知っておるぞと言う事。人間のお腹の中に宿っておる赤ちゃんが男か女かという位の事までわかっておるという事。
 しかもその人間の心を、神様が自由自在になさる力も持ってござると言う事、そういう働きを天地金乃神はしてござると言う事を、ここでは天地一目で見て居るぞと仰っておる。だからそこんところをですね、今日の御理解で頂きますと本当にそうであるとすれは、本当に取り越し苦労はせんでよいなあと思うような事がいくらも出て参りましょう。同時にです、神の徳を充分に受けようと思えば、ままよという心を出せ、ままよとは死んでもままよと言う事ぞと言う様に厳しくいうておられる事柄を。
 私共が小さい事柄の中からどうでもよいと言う様な、心の状態を何時も創るおかげを頂かねばなりません。これは死んでもと言う事ではない。お願いしてる事が右になろうが、左になろうがそれこそどうでもよい主義である。お取次を頂いたが最後、そして受けものが悪ければおかげが漏ると仰るところを。おかげを受けものをつくる事に精進する。それが今月今日只今のところを先の事ではない、今月今日、只今のところを見極めて教えをそこに表していく。行じていくという生き方こそがいわば。
 おかげの受けものを完璧にして行くそれが手立てである。それから又、徳を充分に受けようと思えば、ままよという心、ままよとは死んでもままよという厳しい事ではなくて、もうこの事柄はです、例えば、結婚なら結婚、こういう人と見合いをしたいと思います、気に入りましたと、どうぞよろしくお願いしますとそれなんだ。見合いをした、気に入った、向こうも気に入った。けれどもそれがどこにいけない事になってくるかわからんですからね。お願いしとったのに、くずれた等と思わんですむように。
 さあそこまでお願いをさして頂いたら右左は神様におまかせしますと言う所に出たとこ勝負、そのこと自体がおかげとして受けられる訳なんです。いわゆるどうでもよい主義である。どうでもよい主義は如何にものんきなようにあるけれども、さあおかげが漏るぞとおっしゃるところ、受けものが悪ければ。そこでおかげの受けものを本気でつくらして頂く為の今月今日、只今を大切にしていこうと言う事になる訳であります。そこから充分の徳を受けようと思えばとこう。
 いよいよこの事によってお徳を下さろうとする様な事柄に直面した時にです、いよいよ日頃稽古しておる信心をそこに持ってくればよい訳である。そこにままよという腹が座る。日頃啓子しておらずしてから、いよいよの時だけは、その時だけままよという心を出せというても出らん。日頃の稽古がだから大事だと言う事になります。今日はそういう意味でこの22節を頂きました。だからこの22節はいよいよギリギリの時のそのままよでなくて、日常の中にままよと言う事を本気で稽古しとかねばならんと言う事ですね。
   どうぞ。